孫の手形と縄文の手形 [土器作り]

孫の2歳を記念して、土器屋の「じいじ」が、手形なんて簡単さと気軽にはじめた。
いざ、手形をとろうと、粘土板の上に孫の手をのせて、孫の手が、あまりにも可愛く、しかも柔らかいことに改めて驚き、周りからの「もっと」の声は、聞こえない振りをして、「そうーと」押さえた。その結果、「手形だ」と、説明しないと良くわからないものができた。粘土を柔らかくしたらの声も有ったが、ある程度の硬さがないと、指に着いてキレイに作れないとあきらめてもらった。
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下の写真は、ゲンコツの指を「えい」と親が押しつけたもの。
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下の写真は、保育園の卒園記念に、保母さんの助けを借りて作った園児の手形である。
保母さんは、毎日の経験から押え付けても大丈夫という確信と、手形とわかる物でなければ、保護者に説明できないという義務感。それに、大きな声では言えないが「他人」であることも働き? はっきりした手形になっていると思う。しかし、手の痕を付けるという意志はあるが、躰に力が無いため手の平の痕はついていない。
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縄文時代の手形や足形は、「わが子の健やかな成長を願って作られた」とされている。はたして、縄文人が我が子の、柔らかい手をむりやり押し付けただろうかという疑問がわいた。
足形は、歩いて、粘土板に乗りさえすれば自動的(特にかかと)に体重がかかり、足形を取ろうとする本人の意志が無くとも、キレイにとる事ができる。田圃に残された足形はその例である。
 しかし、手形は、本人が手形をとろうとする意志が無ければ、キレイな手形をとる事が出来ない。理由として、手形も足形も、指は他人が押さえることで形が取れる、しかし、手の平は、本人が手首に体重をかけて押す。あるいは、誰かが、手首をつかんで「痛いと泣いても」無理やり押さえつける。または、置いた手の上から粘土板を押し付ければ、キレイにとれる。でも、「痛がる」と思うと自分の孫にそれはできない。

 この場合、「成長を願って」と意味合が反対になるが、デスマスクをとる時と同じ状態になれば、置いた手の上から粘土板を強く押し付けても、痛がることは無くキレイな手形をとることが出来る。反対に、本人が体重をかける意思が無くなっていることから、足形をとる方が難しくなる。
 
以上の事から、遺物を観るとき、「わが子の成長を願う」場合の手形は、手の平の陰影が薄く、足形は、カカトがキレイに出ているものとして良いのではないかと考えた。

実は、本人に手形をとろうとする意思がない2歳の子供には無理なことを知らず、粘土の汚れを洗い落とすのに、手が良いか、足が良いかを話し合い、手の方が楽と手形を選んだ。そこで、誕生日から少しずれるが、もう少し暖かくなったら、粘土遊びの作品と、「カカトの深い足形」を、孫と一緒に作りたいと楽しみにしている。

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